モダン・ジャズ入門中

三十路も半ばを過ぎてモダン・ジャズにハマりました。

ジャズを熱心に聴き始めて驚いたこと いくつか

録音の質が高い

ロックの感覚だと、各々の楽器の音がクリアに録音できるようになるのは60年代後半からという印象なのだけれど、ジャズのアルバムは50年代でも音の綺麗なものが珍しくないことに驚いた。もちろん作品によって善し悪しはあるけれど、50年代も後半になるとハッとするほど録音が綺麗なものがある。ロック・ファンとしては羨ましい。

 

録音年志向

これもちょっと意表を突かれたところで、例えば『Waltz for Debby』(1962年)なんて書いてあると、ロックやポップスのファンはこの1962年というのは疑いもなくリリース年であると考える。ところがジャズだとこれが録音年になるのですね。

これはジャズのセッション性・一期一会性と言うんでしょうか――そう言えば寺山修司はジャズのことを語る中で「日付のある音楽」という表現をしたけれど、そういうジャズの性質からして録音年の方が自然と重視されることになるのだろう。

あと、うがった見方をすれば、ロックやポップスほど大衆性がないということの反映とも見ることができる(例えば『Let It Be』であれば、これが "いつ録音されたか" よりも ”いつ発表されたか" の方が文化史的には重要である)。

ロックやポップスのようにオーバーダビングなんかを施して1曲を作るのに長期間かかるということがあまりないこととか、録音したものをすぐ発表せずにしばらく寝かせておくことがあるという習慣?なんかも影響しているのかも。

発掘音源なんかのことを考えると、確かに録音年を明示する習慣があるのは便利だと思う。

 

レーベル志向

これもなかなかに新鮮だった。ロックの場合、レーベルに注目して聴くというのはかなりマニアックな聴き方と言えるが、モダン・ジャズの場合はそれがかなり普通のことになっている。これはやっぱりBlue Noteの影響が非常に大きいのだろう。なにしろ1500番台とか4000番台なんてナンバリングが分かりやすいし、ジャケットの統一感もある。

それからレーベルのプロデューサー(Blue Noteの場合はもちろんAlfred Lion)がレコーディングにおいて実際にプロデューサーとしての腕を振るったことも、ジャズ・ファンをレーベルに着目させる一要因であろう(ロックの場合もプロデューサーは重要だけれど、別にレーベルに属しているわけではない)。

 

オーディオ志向

特にソフト面。音楽ブログを読んでいても、ジャズでは作品が収録されたソフト(≒レコード)自体への注目度が高い――というかそこに注目することが常識化していて、オリジナルだの再発だの、プレスがどうののスタンパーがこうのという話がごく当たり前に出て来る。もちろんロックやポップスでも話題になるところではあるけれど、注目の度合いはジャズの比ではない。

これは先ほどの「レーベル志向」とも微妙に結びついている志向だと思われる。「Blue Noteの1500番台を集めていく」みたいな感覚は普通のロック・ファンにはない、と思う。

「優秀録音盤」という観点も、もちろんジャズに特有とは言えないけれど(クラシックが本場?)、ロックに比べるとそこへの意識はかなり高いと思う。ディスク・レビューでもその点に留意した記述なんかがあって、これは素直に有難い。

 

楽器非志向

ミュージシャンが使っている楽器への関心が非常に低いように見えるのもロック・ファンからすると不思議な点である。ロックの場合、例えばJimi Hendrixのファンであれば、彼の使用ギターは勿論のこと、アンプやエフェクター、更にはギターを吊り下げるストラップにまで関心が及んでいる。概して、有名ギタリスト(またはベーシスト、またはドラマー)がどんな機材を使っているのかというのは、マニアでなくてもファンであれば基本的な情報は知っている。

それに比べると、ジャズ・ファンがミュージシャンの機材に対して有する関心というのはびっくりするくらい低いようだ。もちろん同業者(つまりミュージシャン)はそのあたり調べているのだろうけれど、普通のブログにそうした情報が示されることはまずないようである。もちろんエレキギターなどのようにモデルの違いが分かりやすくないという事情はあるが、それにしてもロック・ファンからするとかなり不思議な状況である。

 

選民思想

ジャズのアルバムをレビューしてくれている本やらブログやらをよく読んでいて、大変勉強になるし有難いのだけれど、割とあからさまな選民思想を感じてウッとなることが時々ある。

一例を挙げると、アルバムを紹介する際に「本作の良さが分からない人はジャズとは縁がないと思ってください」とか「この曲を聴いて心が震えない人は、もうジャズを聴かなくてよろしい」とかいった表現を、これまでに何度も見かけた。つまり他人がジャズを聴き続けるべきか否かを判定する権利を自分が持っていると、ナチュラルに信じているわけである。一体何様のつもりなのだろうか?

「ジャズが分からない人」と「ジャズが分かる人(自分を含む)」という構図が、ごく当然のものとして出来上がっている。言い換えれば、「ジャズは誰にでも分かるものではない」という前提がある。もし本当にそうだとするならば、それってジャズにとってむしろ悲しいことのはずなのに、むしろそれを喜んでいるフシがある(なぜなら自分は「分かる」側だから)。

 

オヤジ向け業界

なんかジャズ業界というのがオヤジ向けに作られてんのかなあ、と感じることがある。「女子ジャズ」なんて括りはその分かりやすい現れだろうし、あと結構気になるのが、ジャズ雑誌なんか読んでると、女性ミュージシャンの紹介文に「その美貌も相まって」とか「才色兼備」みたいな表現が今でも普通に使われていること。書き手としては褒めているつもりなんだろうけど、プロ(この場合は音楽家)が自らの仕事ではなく容姿に言及されるのって、それ自体が侮辱じゃないの……と、30代男性(私のこと)でも思うんだけど。

 

世間にはジャズが溢れている

これが一番驚いたことかも知れない。何しろ、蕎麦屋に入ってもカレー屋に入っても流れてるんだもの。ジャズがBGMによく利用されるということは知ってはいたけれども、まさかここまでとは。自分自身がジャズに積極的にコミットするようになって、初めてそのことに気が付いた次第。

しかも、そうしたBGMとしてのジャズが必ずしも「上っ面ジャズ」みたいな感じじゃなくて、結構面白かったりするんだよなあ。この前ショッピング・モールに行ったら「Asiatic Raes」がFreddie Hubberd『Goin’ Up』風のアレンジで流れていて、思わず聴き入ってしまった。